1月28日、土曜日。昼までの仕事を終え、JRで千歳空港へ。15:50発の飛行機で、花巻に向かいます。「花巻空港周辺が強風のため、引き返す可能性もあります」とのアナウンス。高所恐怖症の私は、少々不安に襲われます。
乗客は20名くらいでしょうか?小さな機内は、閑散としています。通路側の席で、ひたすら前だけを見て、揺れない事を祈ります。幸い祈りが通じたようで、風を受け多少は揺れましたが、何とか無事に到着。一安心です。
到着ロビーでは、友人T君夫妻が、笑顔で私を出迎えてくれました。T君とは、大学時代からの付き合いで、病院実習を一緒に回り、国家試験前には、グループで一緒に、試験勉強をしました。もちろん一緒に遊び、酒を飲んだ仲です。今でも時々、電話で近況を報告し合っています。
最後に会ったのは、8年ほど前でしょうか。夫婦で札幌に遊びに来た時です。卒業後、岩手医大・循環器内科の医局に入り、現在盛岡市内で開業しています。
奥様の運転で、今日宿泊する花巻南温泉郷・鉛温泉「藤三旅館」を目指します。夕暮れの市内を40分くらい走り、細い曲がりくねった道路を降りて、旅館に到着です。木造3階建ての、堂々とした、歴史を感じさせる建物です。ぼんやりとした桃色の照明効果もあって、不思議な郷愁を感じました。
部屋で一休みの後、自慢の温泉へ。A君の案内で、秘湯「白猿(しろざる)の湯」に入りました。天然の岩をくり抜いた湯船は深く、立った姿勢での入浴です。柔らかな湯で、温度も39度くらいでしょうか?ぬるめの湯が好きな私には、ちょうど良い湯加減です。吹き抜けの高い天井を見上げ、湯に浸かっていると、体のこわばりが、徐々に抜けていくのが分かります。
風呂の後は、部屋での夕食です。3人でシャンパン1本、赤ワイン2本、日本酒四合瓶一本。旅行先での解放感もあって、お酒が進みます。
仕事、家庭、子供の進路、旅行、音楽、共通の友人の近況、自身の体調、親の介護、兄弟の様子、美味しい店、地元の経済、リタイア後の生活、クリニックの経営、女房への愚痴、震災、震災後の岩手・・。話題は尽きません。
T君のマイブームは、歌舞伎鑑賞との事。新幹線で月一回のペースで、歌舞伎座通いを、夫婦仲良く、この数年続けているようです。なかなか良い席を取れないのが悩みとか。人気公演は、発売後ほんの数分で、売れ切れると言っていました。
T君曰く「歌舞伎の御曹司は、舞台でのオーラが全く違う。人を引き付ける力がある。生まれ持った遺伝子、幼少からの英才教育、伝統芸を継ぐという覚悟と弛まぬ努力が、観客を魅了するのだろう」。私も話を聞きながら、妙に納得させられました。
朝湯に入り、軽めの朝食。幸い、お酒も残っていません。9:30に旅館を出発。昨日とは違って、風もなく、柔らかな日差しです。
向かったのは「宮沢賢治記念館」。旅館から、20分ほどのドライブです。小高い丘の駐車場には、岩手県以外のナンバー、レンタカーも並んでいます。
日曜日という事もあってか、館内はなかなかの混雑ぶり。足を止め、熱心に資料を読んでいる方々も、沢山いました。賢治に関しては、断片的な知識しかありませんでしたが、生い立ち、世界観、自然観、芸術、創作、宗教観を、バランス良く展示してあり、ファンでない私でも、十分楽しめました。一瞬「木偶乃坊こけし」を、お土産にとも思いましたが、やめました。
次に向かったのが「萬(よろず)鉄五郎記念美術館」。T君曰く、盛岡を代表する、日本近代美術先駆者の、美術館との事。美術館の建っている場所は、萬の生家のあった所です。こぢんまりとした二階建ての館内では、時代を追って、萬の作品が展示してあります。生い立ち、時代背景、作風の変化は興味深く、ゆっくりと絵画を鑑賞できました。
ただ、代表作である「赤い目の自画像」は展示されておらず(岩手県立美術館蔵)、デビュー作「裸体美人」もレプリカだったのが、少し残念ではありました。
そろそろ昼です。小腹も空いてきました。車は、市内の人気蕎麦屋に向かいます。時分時でもあり、店内はほぼ満員。わんこそば・全国大会も行われる、有名店らしく、店員様接客にも活気があります。
席が隣の家族は、親子丼。美味しそうな匂いが、食欲をそそります。T君はもりを二枚、奥様は鴨南蛮、私は鴨せいろ・大盛りを注文しました。蕎麦はやや細めで、二八くらいでしょうか?のど越しも良く、程よい香りも残っています。ネギ・鴨もしっかりした食感で、やや辛めの汁との相性の良く、美味しくいただきました。
一泊という短時間の花巻滞在でしたが、久しぶりにT君ともゆっくり話ができ、初めての場所を案内してもらい、大変楽しい旅行でした。こんどは花と緑あふれる季節に、再訪したいと思います。
T君、きめの細かいおもてなしを、ありがとうございました。お互い、もう少し頑張りましょう!
昭和62年に、医学部を卒業しましたので、卒後30年になります。10月末の土曜日、「卒業30年目の、同期会」があり、参加しました。
診療後、14:30の飛行機で東京へ。16:00に羽田着、新宿のホテル到着が17:30。シャワーを浴び、着替えてから、同ホテル内の会場へ向かいます。
卒業してすぐに、札幌に帰ってきて、北海道大学の小児科に入りましたので、母校との繋がりも、現在ではほとんどありません。仲の良い数人とは、時々電話で話をしますし、東京に出張の際は食事をしますが、多くの同期とは顔を合わせるのは30年ぶりです。
受付を済ませ、テーブルへ。ざっと会場を見渡すと、現在の姿と、名前が一致するのは約半分。学生時代に仲が良かったメンバーは、すぐに分かります。出席者48名との報告が、幹事からありました。北海道からは、私だけの出席でした。
A君は、栃木県佐野市で、開業。産婦人科医でしたが、今は内科も診察しているとの事。彼曰く“田舎のなんでも屋”。彼とは卒業旅行で奈良に旅行し、マニアックな場所を観光しました。天理市にも宿泊し、街の掃除の行き届いたきれいさに、二人で驚いた記憶があります。
T君は今回の幹事。母校に残って、准教授。現在は学生たちの指導をしているとの事。脳外科医。東京出身の彼は、当時から洒落者で、田舎者の私を初めて“青山”の“ブルックス・ブラザーズ”なる、おしゃれスポットに連れて行ってくれました。
D君は、長崎で外科を開業しています。3回留年しましたが、「私には同期が、皆様の3倍います!」と、笑いを誘っていました。実は数年前に胃がんを発症し、手術しました。幸い、術後の経過は順調。長崎で、全国に先駆けて“在宅医療”の普及に中心的役割を担い、尽力しています。
N様は、小児科医。都内で研修の後、今は同級生のH君と結婚し、北九州市に住んでいます。当時と変わらぬ、素敵なスタイルと笑顔でした。“腎臓患者様のための、カリウムの少ない野菜づくり”など、自分の理想に邁進するH君を、上手にコントロールしているようです。
F君は、都立病院の血液内科部長。学生時代は首席で、母校の教授候補でした。真面目で、穏やかな印象は変わりませんでしたが、「S君(亡くなった同期)の担当医として、上司と治療方針が異なり、結果として大学を辞めました」とのコメント。医師としての真摯な生き方と、激しい芯の強さを感じました。
その他にも、昨年55歳にして初婚のN君、3度離婚のM君、相変わらずのカーマニアのS君、震災後の福島で放射線後遺症の調査をしているM様、世界の美術館めぐりが生きがいのK様、湘南の海で今でもサーフィンを楽しむY君・・・。
またの機会に、お会いする事を楽しみに。私も日々の暮らしを充実させ、元気な姿で出席を続けたいと思います。
2001年10月1日が開院日ですので、10月で開業15年になります。
開業当時の出来事を調べてみましたら、「小泉内閣誕生」「愛子様誕生」「アメリカ同時テロ」「札幌ドーム完成」「ハリーポッターのベストセラー」「ムシキングの流行」など、やはり隔世の感があります。
開業当時は資金的な余裕もなく、事務職員2名、パート看護師2名で始めました。パート看護師様は、隔日勤務で1名でしたので、採血、点滴等は、私がやっていました。薬も院内処方でしたので、空き時間を利用して、私がせっせと薬を分包して、ストックしていました。薬の発注や在庫管理、患者様への説明も、私がメインで行っていました。診療時間も、月曜日~金曜日は9:00~19:00、土曜日は12:00まで。若かったのでしょうね、良く続いたものです。インフルエンザに罹って、数日休診したのが1回だけ。何とか大病もせずやって来られました。
スキーで足首を捻挫し、約一か月歩けなかった事もありました。診療中にめまいがして、あわてて知り合いの内科に駆け込み、診察していただいた事もありました。不摂生がたたり、痛風の発作も数回。一念発起して、8キロのダイエットもしました。
幸いにして、大きなトラブルは発生しませんでしたが、小さなトラブルは毎度の事。その都度、私自身の経験と知恵を絞り、全力で対処してきたつもりです。スタッフ間の人間関係がギクシャクし、私の判断で退職を促したこともありました。スタッフは全員女性ですので、感情論になってしまうと、収拾がつかず、お手上げです。
基本的には“性善説”ですが、数年前に患者様のスニーカーが盗まれて、防犯カメラを設置しました。
大晦日の休日当番も、4~5回やりました。スタッフも随分と大変だったと思います。
「新型インフルエンザ」の流行時に、休日当番に当たり、クリニックの外、北一条通沿いに、長い行列ができた事もありました。300名弱の患者様が、受診を希望しました。忙しい時期の休日当番受診数が100名強ですから、約3倍です。スタッフ全員でフル回転。朝の8:00から診療開始し、終わったのが22:30。トイレタイムを数回取っただけで、軽食を取り、水分を取りながら、ひたすら必死で診療しました。札幌での流行が全国に先駆けたものでしたので、診療の様子、クリニックの混雑ぶりが、全国版の新聞に掲載され、テレビでも大きく取り上げられました。
クリニック周辺の様子も、随分と変わりました。北一条通は、片側2車線に拡張し、以前にも増して、交通量が多くなりました。クリニックの前の交差点には、信号機が設置されました。近くの民家は取り壊され、大きなマンションが、いくつも建設されました。向かいには、コンビニもでき、繁盛しているようです。
周辺に保育園も随分と増えましたね。園医を頼まれる事も増え、今では五か所の保育園で、定期的に健診をしています。特にこの数年は、本州企業が運営する施設が増えました。その他に小学校の学校医を2校、幼稚園の園医を2園、担当していますので、少しは地域医療に、貢献できていると思っています。
「お前みたいな、愛想のないやつが、よく15年もやったと思うよ。ある意味大したものだわ」
悪友の、素直な感想だそうです。
開業医としては、そろそろ折り返し点あたりでしょうか。慢心することなく、与えられた仕事を、きちんとこなしていきたいと思っています。
「転勤です!お世話になりました」
6月の少し肌寒い午後。彼は面会で診察室に入って来た途端、はっきりとした口調で、告げました。
180センチの長身に、厚い胸板。半そでのシャツからは、はち切れそうな太い手が伸びています。
「7月から、東京に転勤になります。先生には、大変お世話になりました」
「えっ、転勤かい。正式に、決まりなの?」
「はい、辞令が昨日、出ました」
「そうか、まあ・・・サラーマンは、仕方ないか。だけど、残念だなあ」
K様は、血液製剤を主力製品としている会社の、営業マンです。小児科のクリニックでは、使う事がない製品を扱う会社のMR様ですが、懇意にさせていただいているW先生の紹介で、お付き合いが始まりました。
W先生を交えて、食事をしたり、ゴルフに行ったり、野球を見に行ったりと、随分と楽しい時間を過ごしました。私の歌のライブにも、毎年来てくれました。
K様の経歴は、医療業界では随分と異色なものです。MRの前は、プロ野球のスラッガーでした。国士舘高校、青山学院大学、ホンダでの社会人野球を経て、プロ野球の世界に入りました。
大学時代は東部リーグで、ベストナイン。社会人時代は都市対抗で、新人王の意味合いもある「若獅子賞」&ベストナインとして活躍した、輝かしい球歴を誇ります。
「右の大砲」として、大いに期待されたプロ野球人生でしたが、残念ながら力を発揮できず、わずか3年間で退団する事になりました。
退団後、色々と新しい仕事の誘いはあったようですが、最終的に全く経験も知識もない、医療業界に飛び込みました。大きな挑戦です。
転職当初は、予想以上に生活が変わり、随分と戸惑ったようです。サラリーマンとしての常識・作法・服装・言葉遣いを、初歩から厳しく指導されました。野球だけを通して、社会とかかわってきた身には、世界観が変わる体験だったと思います。
札幌でのMR生活が始まり、6年が経ちました。人知れず、勉強も努力もしたはずです。今では立派にMR試験にも合格し、営業成績も上位の、やり手営業マンです。
彼の優れている面は、挨拶がしっかりできる事、知ったかぶりをせず勉強する事、そして何より愛嬌がある事です。病院スタッフからの受けも良く、人気があります。生まれ持った、恵まれたキャラクターなのでしょうね。
もちろん、30代半ば。まだまだ足りない面はあります。自分と価値観の違う人間と、上手に意思疎通を図る事。感情だけで意思決定をせず、冷静に局面を判断する事は、今後さらなる飛躍に必要と思います。
新天地・東京でも、しっかり仕事をやりきってください。札幌応援団はみんな、別れるのはさびしいです。
K様の今後の頑張りに、大きな期待をしています。
頑張れ『金子洋平』様!
先日、U君から「3月下旬に、札幌に帰るので、いつものメンバーで軽く飲みましょう」との、連絡がありました。U君とは、琴似中学校柔道部から、40年以上の付き合いになります。彼は20歳で、仕事のため札幌を離れ、東京へ。もう、35年です。
近況報告、仕事の話、色々な話題が出ますが、最後にはどうしても柔道部時代の話になります。
当時の琴似中学は、琴似武道館で小学校から柔道を習ってきた経験者ばかりだったこともあり、市内でもトップの実力でした。私たちが中3の中体連では、団体戦は札幌市で優勝し、全道大会でもベスト8まで勝ち上がりました。
団体メンバーは、U君と私、軽量級のK君、中量級のO君、そして重量級のエースのS君でした。K君、S君と私がポイントゲッターで、4勝1分か3勝2分くらいで、勝利していました。
実は入学時、S君は違う中学でしたが、柔道部が強い学校で大会に出たいとの事で、転校してきました。考え方がしっかりしていて、当時から将来は柔道を生かして進学、就職したい希望を持っていました。
S君は172センチ、90キロの骨格がしっかりした体格でしたから、当時の中学生としては別格でした。得意技は、大外刈り。太い手で上体を引き付け、一気に体重を預けます。重さと粘りで、相手を倒すタイプでした。性格は実直な努力家で、後輩たちにも慕われていました。
中学卒業後、柔道の活躍が認められ、特待生で「札幌第一高校」に進学しました。高校での活躍は、残念ながら国体出場止まり。全国区の選手には、なれませんでした。東京の大学や、警察官の進路も進められたようですが、高校卒業後は札幌の一般企業に就職しました。同時に柔道も辞めたようです。
S君と最後に会ったのは、たしか20年位前と記憶しています。共通の知人の結婚式でした。近況報告では、高校卒業後に就職した会社を辞め、高校時代の先輩の仕事を手伝っているという事でした。
S君、K君、私の三人で二次会へ。S君のお気に入りの店で、おごってもらったような記憶がありますが、定かではありません。少し丸みを帯びたものの、相変わらずの迫力の容貌で、ススキノの街を闊歩していました。
S君は先月実家を離れて、アパートを借りたとの事でしたので、連絡先を教えてもらい、別れました。
2か月後、K君から連絡がありました。飲みに誘おうと思って、S君に電話をしたが、通じない。自宅を訪ねても引っ越した後。居場所を知らないかとの、問い合わせです。
私も心配になり、共通の友人たちに連絡をし、S君を探してみました。色々と手を尽くしましたが、誰も行方を知りません。以前連れて行かれた、彼馴染のススキノの店にも行ってみましたが、この一月は顔を出していないとの事。実家に連絡をしようと思いましたが、引っ越した後。
消息不明になってから、20年。誰も連絡が取れません。どこかでたくましく、やっているとは思っていますが・・・・。当時の仲間はS君と再会したいと、ずっと思い続けています。
多感な中学3年間、週5回の厳しい練習に耐え、一緒に試合で戦い、時にはふざけ合った仲間です。
またいつか、みんなで酒を飲み、昔話がしたいです。
S君の名前は「斉藤 英人 さいとう ひでと」。私たちは親しみを込めて、「エイジン」と呼んでいました。